◆2008年

《 緯糸柄を表現する糸 》 について
[2008年1月]

 前回は、帯の土台となる生地を構成する糸についてお話しましたが、今回は柄を表現する糸「絵緯、胴緯 」についてお話します。
生地を構成する地経や地緯と異なり、柄を構成する「絵緯や胴緯」と呼ばれる糸は、表現したい題材によって用いる糸は、細いもの、太いもの、撚り回数の多いもの、少ないもの等、多種多様なものとなります。どの様な糸が良い悪いという問題ではなく織物として表現したい題材を構成する素材として適切なものかどうかが問題です。 勿論、絹糸だけでなく金糸や箔なども「絵緯」として用いられますが、今回は絹糸についてお話します。
「絵緯」糸で一番代表的で特徴ある糸で、「江州だるま糸」と言われる唐織用の糸があります。 唐織は、本来能舞台で使用される能衣装の一つですが、その技法を西陣帯に応用したものがいわゆる〔唐織の帯〕です。もともと舞台衣装なので、織物組織においては緻密な組織というよりは、大胆で遠目の効く組織を求められます。したがって織物組織では「絵緯」を一番ボリュームのあるように表現したいので、経糸組織で「絵緯」を抑えない「針浮き」と呼ばれる技法を用います。この織技法は、ボリュームがでる反面、毛羽立ちやすくまたひっかかり易い事に加え、本来土台を構成する経糸だけで〔絵緯〕を綴じるので、その綴じ跡が目立つ事や織物表現がワンパターンになるという欠点があります。
このような〔唐織〕技法の組織上の欠点を補うのが「江州だるま糸」です。この糸は、一年で一番柔らかい春の桑を餌とした春繭を製糸の「殺蛹乾繭」段階で完全に乾燥させず生繰りすることで、通常の生糸よりも毛羽立ちの少ない強くて艶のある生糸となり、撚糸の工程に於いて撚りを少なく出来ます。撚りが少ないと糸が膨らみ綴じ目を隠し、また糸自体に陰影が出ます。したがってこの糸を使用することで、唐織の組織上の欠点を補うことができます。言い換えれば、唐織にはこの糸が不可欠であり、通常の撚りの多い糸を使用すると唐織の特徴的な表現ができず、かえって欠点ばかりが目立ったりします。
このように柄を表現する「絵緯」は、その「素材」としてのブランドだけでなく、帯が表現したい感覚の素材として,適切かどうかが問われるのではないでしょうか。

《 箔 》 について
[2008年2月]

現在の西陣帯を構成する素材において、「絹糸」以外のものといえば「金糸」や 「箔」があります。
今回は、「箔」についてお話したいとおもいます。 現在、西陣織に用いられる素材としての「箔」には、「引箔」と「両面箔」と呼ばれるものがあります。
「引箔」は和紙に薄い金銀箔を張った無地のものや、漆に顔料を混ぜて多彩な色を出したものまたそれらを組み合わせて模様を表したもの等を極細に裁断し、それを一本一本織り込んでいきます。和紙に片面だけ色柄を付けたものなので、裏返ると土台の紙が見えてしまいます。したがって「引箔」を織り込む場合は一度「機」を止めてヘラで一本一本引き揃えるように織り込まなければなりません。
他方、「両面箔」は裏表とも着色したものなので、糸と同じように扱え、「機」を止めることなく織り込む事ができます。ただ、どうしても撚れてしまうので、箔面が汚くなります。 「引箔」「両面箔」どちらにしても、紙もしくはフイルムに金属である「金箔」や 「銀箔」を貼り付けたり、金属そのものを真空蒸着させたものです。 この真空蒸着といわれる技術は、戦後発明されたものであり、それまでの家内工業的な「箔」の工程を劇的に変化さす技術革新でした 。例えれば土壁を職人が塗っていたものを、スプレーで吹き付けるようなものです。
したがって、この真空蒸着という技術が発明されるまでは「箔」は片面が当たり前であり、織物の表現に糸でなく「箔」を用いたい時は、「引箔」を用いなければなりませんでした。 このように「引箔」はその製作工程や製織工程に非常に高度な技術を必要としたので「引箔帯」は、付加価値の高い高価な「帯」となっていました。
そして引箔さえ引けば「高額帯」というイメージが出来ていたのも事実です。このような事情から「自動引箔装置」という工作機械が発明され「引箔を引く技術」を持たなくても容易に「引箔帯」を織ることが出来るようになりました。そして、「引箔帯」が一般化されると共に高級帯と値頃量産帯との一番判り易い垣根が取り払われ、「引箔」を必要としない帯までもが「引箔」を引き一時は「引箔帯にあらずんば帯にあらず」というぐらい「引箔帯」が量産されました。また、「引箔」自体も上記の真空蒸着や転写プリント技法などにより、粗製濫造されました。
この「こばなし」で何回かお話させてもらっていますが、まず帯に表現したいモチーフがあり、それを具体化するために素材や技術を選びます。当然、「箔」の表現を必要とするものもあればしないものもあります。引箔は帯を構成する多くの技術の一つであり、それだけで帯の良し悪しが決まる訳ではありません。しかし、その他の技術や素材の差違は非常に解りにくく、一番解りやすい技術が「引箔」だったのです。
そして、その付加価値が取り崩された結果、現在では「引箔」の正当な付加価値を評価することが難しくなっているように思われます。

《 金糸 》 について
[2008年3月]

前回は「箔」についてお話しましたが、今回はもう一つの主要な素材である「金糸」についてお話します。
現在、西陣織に使用されている「金糸」は、そのほとんどのものが金、銀、アルミ等を真空蒸着したフイルムをキュプラ芯やレーヨン芯に高速で撚ったものです.そして 一部特殊なものとして和紙に真空蒸着したものをギロチンで裁断し、絹芯や綿芯またはレーヨン芯などに低速で撚ったものがあります。
真空蒸着技術が金糸の製作工程に取り入れられる以前に行われていた技法、つまり金沢辺りで作られる金箔、銀箔を和紙に漆で貼り、ギロチンで裁断したものを絹芯や綿芯に撚る技法は、現在に於いては文化財の再現や一部特殊な工芸品に使用されるぐらいの生産量になっています。まして、「手撚り」は、昨年についに最後の技術者が亡くなり、後継者が居ない状態です。なぜ、このような事態になったのでしょう。
真空蒸着が開発される以前、つまり戦前の金糸需要というものは、非常に少ないものでした。究極の労働集約形型産業に加え、金、銀の素材自身が非常に高価なものなので、「本金」はもとより銀を金にみせた「紛い金」ですら非常に高価なものであり、需要が少ないというよりは需要に見合う安価な金糸がなかったのだと思います。
したがって「金糸」を使用した着物や帯は、一部の特権階級やお金持ちのものでした。
実際洋装より和装の多かった戦前に、振袖を着ることの出来たのは僅かな人達だったのではないでしょうか。 戦後、庶民の生活レベルが向上するとともに礼装用の呉服需要が増大し、それに呼応するように「真空蒸着」という画期的な技術革新がおこり、「金糸」の大量供給が可能となり、その相乗効果で高級礼装呉服は急速に一般化しました。そして、芯糸が絹や綿から化学繊維に代わり、撚る箔の土台が和紙からフイルムに代わることでより安価な金糸が大量に生産されるようになりました。
このような事情により、金糸はその工程の労働集約的要素の高い分野から仕事量が減り、ついに「手撚り」の工程は無くなりました。 では、このような事は総て悪だったでしょうか。そのような事はないと思います。礼装用帯の大衆化には、このような技術革新は必要不可欠ですし、古い工程が総て必要とは思われません。合理化出来るものはすれば良いし.安価で高品質のものであれば.それに越した事はありません。どうしても妥協出来ない部分だけ残っていれば良いのです。
また、新しい金糸による新しい現代的な表現を求める需要もあります。 要するに、何を表現したいのかによって使用する「金糸」が変わるのです。現在、当社において一番の問題は、当社にはどうしても必要な金糸であるにも係わらず、一般には非常に需要が少ない金糸があることです。
このような事は、「金糸」に限らず、他の素材、技術にも当てはまりますし、当社だけではどうすることも出来ないのが現状です。

《 糸染め 》 について
[2008年4月]

繊維に色をつけて、色彩を表現する方法には、糸を染めてから織る「先染め」と織ってから染める「後染め」があります。いわゆる西陣の織物は、帯を含め基本的に「先 染め」の織物になります。 「先染め」は材料としての「糸」を染めます。したがって、同じ色でも異なる糸質の糸を染め、織物組織によって使い分けたり、金糸や箔など他の材料のものと撚り合わせたりして、職人が染め上げた「色」以上の「色彩」を表現することが出来ます。 現在の西陣における「糸染め」には、草木染めなどの「天然染料」、人工的に創りだした「化学合成染料」そして「化学染料」の中で水に 可溶な金属を含んだ
「含金染料 」が使用されています。 「天然染料」は植物、動物、鉱物などの自然界にある色素を使用しますが、その染法はかなり複雑で色相もくすんだものが多く品質も一定しません。また、採取量も少なく高価で堅牢度にも問題があり、現在では短所の多い染料と言えるかもしれません。 「化学合成染料」は十九世紀半ばに発明されて以来発展を遂げ、現在では四千以上の品種、商品銘柄としては二万五千以上あり、どの様な色彩も表現出来ることから一部の手工芸的なものを除きほとんどの染色に使用されています。 「含金染料」は堅牢度に非常に優れている事と、鮮明な色よりもややおもみのある色を染める事に適していまが、染料自体が高価であることや、高度な染色技術が求められる事などにより.工賃も高く付きます。 このように、それぞれの染料には一長一短がありますが、自らが想う色彩の中で色に重みをもたすため、また金糸や箔などの他の素材との適合性において当社では「含金染料」を使用することが多くあります。例えば、本金箔には鮮明な色であっても重みが必要だと思われるからです。また、一番大切なことは想いの色彩が織物の中で表現出来るかどうかであり、染め方や染料の種類はそれに付随する物であると思います。

《 綜絖その一 》 について
[2008年5月]

 今回は「綜絖」という機械についてお話したいと思います。
この装置の仕組みを説明し理解していただくことは非常に難しいことだと思いますので、気楽にお読みください。
紋織物を織るには、「機」「ジャガード」「綜絖」という機械装置が必要です。織物を織るということは、経糸と緯糸を組織させることです。経糸に緯糸を挿入するためには、組織に合わせて経糸を上下させなければなりません。このための装置が「綜絖」と呼ばれるものです。
「機」も「ジャガード」も紋織物を織る為の必要不可欠な装置ですが、これらの装置はいわゆる汎用装置であり、西陣の「織屋」は、基本的に同じものを使用します。一方、「綜絖」は、織り上げる組織によって、また経糸の数や柄を表現する絵緯糸を綴じる組織によって,各織屋のオリジナル仕様になります。
そして、この「綜絖」を動かす装置が「ジャガード」であり、「ジャガード」を備え付ける土台が「機」なのです。したがって「綜絖」は紋組織や糸使いという織屋のソフトウェアーを具体化するブラックボックスであると言えます。 経糸を制御するのに一番簡単な方法は、経糸を一本ずつ思いのままに制御する事です。この仕組みを「糸把釣」と言いますが、この事が可能であればどのような組織の織物でも織る事ができます。
しかしながら、「糸把釣」を可能にするためには、ジャガードの口数(ジャガードが制御出来る数)以内の経糸に抑えるか、経糸の数と同じだけの口数のジャガードを使用するか、どちらかを選択しなければなりません。現在、西陣で使用されているジャガードの口数は400口 600口 900口のものがあり、他方、経糸の数は2000本から5000本あります。したがって「糸把釣」は現実には無理という事になります。
そこで西陣の先人たちは、糸把釣に匹敵する装置として、棒刀や伏セといった仕掛けを取り入れた「綜絖」を考案したのです。 詳しくは、次回にお話します。

《 綜絖その二》 について
[2008年6月]

 前回に引き続き「綜絖」についてお話したいと思います。
前回お話したとおり、「西陣帯」の経糸の数は組織によって異なりますが、2000本から5000本ぐらいの糸数を用いたものが多くあります。 例えば、糸数2400本の「錦織」を口数600のジャガードを用いて製織するとしましょう。ジャガードの針は600本なので、一本につき4本の経糸を引き上げる事ができますが、逆に言うと4本の経糸が一本の糸の如く引き上がってしまいます。
「錦織」は、3以上で組織を組みますので、針組織だけで「錦」を組もうとすると、少なくとも経糸12本で一組織を組む事になるので凄く粗い生地になってしまいます。
そこで、2400本の糸をジャガードの針数に関係なく一定の糸数ごとに引き上げて地組織を織る装置に
「棒刀」と呼ばれるものがあります。たとえば、24枚の棒刀を用いれば一枚の棒刀に100本の糸がのります。端から数えて1から24までの経糸をそれぞれの棒刀にのせ25番目は1と同じ棒刀にのせます。
このように棒刀は、4本一組の針とは全く独立した経糸動きを可能にします。24まいの棒刀で8枚引き上げれば全体の三分の一である800本の糸をジャガードの針に関係なく引上げることが出来ます。
同じ理屈で二分の一、四分の一、六分の一、十二分の一、二十四分の一が可能になります。 このように帯の土台となる部分は「棒刀」と呼ばれる装置で組織し製織されます。言い換えれば、無地を織るだけならば「棒刀」だけで織ることが出来るということです。
しかしながら帯には柄があります。そこで柄の部分だけ「針組織」を用いて柄を織り出すのですが、
「針組織」だけでは柄を出す針と針の間の緯糸を経糸で抑える事が出来ないのですべての柄が同じ「針綴じ組織」しか使えず組織に変化を持たせられません。
そこで、柄を経糸で綴じる装置として「伏セ」と呼ばれる物が有ます。 「伏セ」については次回お話します。

《 綜絖その三》 について
[2008年7月]

 前回は綜絖の「棒刀」についてお話しましたが、今回は「伏セ」についてお話します。
前回お話したとおり、帯の土台となる地組織は、綜絖の「棒刀」と呼ばれる装置を用いて製織します。
その土台となる地組織の上に、柄を織り込むために柄に合わせて針で経糸を引き上げ、引き上げた部分だけに柄を織り出すための絵緯を織り込みます。 このとき絵緯は、土台の生地には全く組織されず、土台の生地の上にのっている状態になります。この状態を「針浮き」と言います。
この「針浮き」は絵緯をとじる間隔が狭いときは問題ないのですが、「針とじ」がある程度の長さ以上になると絵緯が引っかかったり、土台の生地が見えたりする難点が生じます。 そこで、600口のジャガードを使用した場合、針数20前後で絵緯をとじるようにします。これを「針とじ組織」と言いますが、針でとじると穴が開いたように見えたり、また「針とじ組織」だけでは絵緯の高さが一定で凹凸感のある表現が出来にくい欠点があります。
そこで「棒刀」でジャガードの針数いわゆる把釣に関係なく地組織を組んだのと同じように、絵緯を把釣に関係なく経糸一本ずつ制御する仕組みが考案され、その装置を「伏セ」と言います。 「伏セ」という装置の特徴は、「針によって引き上げられた糸」だけを対象に組織的に経糸を引き下げることが出来る事です。
したがって、柄のない部分つまり針によって引き上げられていない所は、「伏セ」は機能しない事になります。そして柄を織り出すために針によって引き上げられた経糸の一部を使って畦や錦また朱子等の組織による「とじ」を掛けます。例えば口数600のジャガードで糸数2400本の錦地の帯で三分の一の模様を織った場合、針一本につき4本の経糸が通っているわけですから全体の三分の一である800本の経糸を引き上げます。
つまり200本の針を引き上げる事になります。そしてこの引き上げた800本の経糸のうち何割かの経糸を引き下げてやることで、「伏セとじ」を掛けます。 たとえば、十二枚の「伏セ」が入ってたとしましょう。すると1枚の「伏セ」には200本の経糸が通っており全体の十二分の一の経糸を制御することが出来ます。そして「棒刀」と同じ理屈で二分の一、三分の一、四分の一、六分の一、十二分の一、の「とじ方」が可能になります。文様を織り出すために引き上げられた全体の三分の一である800本の経糸のうち、任意の間隔で一定の経糸だけを組織に合わせて引き下げることで柄に経糸を被せる、つまり「とじ」をかける事が可能であり、しかも「とじ」をかけた組織を多重にする事も出来るのです。
少し話しがややこしいので、「多重組織」については次回として今回はここで終わります。

《 綜絖その四》 について
[2008年8月]

 前回「とじ」の基本的な構造についてお話しましたが、今回は「多重組織」についてお話します。
「伏セ」と言う装置を使用することで、針の引き上げによって織り出された柄に、引き上げられた経糸の一部を使って絵緯に「とじ」をかける訳ですが、その上にもう一度「絵緯」を重ねることが出来ます。 これから、「多重組織」の説明をしますが、非常にややこしいので、「錦」や「畦」といった地組織は無視して「伏セ」の基本的な構造だけで説明します。
前回の例と同じように、「2400本の糸数で600口のジャガード、24枚の棒刀12枚の伏セ」の機で三分の一の柄を織り出したとしましょう。棒刀で土台の組織を織った後、柄を織り出すためにまず200本の針で800本の経糸を引き上げます。その後、柄に「とじ」を掛ける為に引き上げた経糸の一部を「伏セ」で引き下げます。 例えば、引き上げた経糸の二分の一を引き下げたとしましょう。
そこに絵緯を織り込みます。すると、800本の二分の一つまり400本の経糸で「とじ」をかけることが出来ます。その上に、もう一度四分の一である200本の経糸を引き下げ、最初の絵緯とは異なった糸を織り込む事ができます。 此処でややこしいのは、最初に四分の一でとじた後、その上から二分の一の
「とじ」はかけられない。ということです。最初に四分の一つまり200本しか引き下げなければ、後の600本の経糸は絵緯の下になっています。その様な状態の経糸は引き下げることは出来ません。
この様に一つの柄を異なった組織と絵緯を用いて織り出す組織を「多重組織」といいます。実際には、「畦」「錦」「緞子」など基本の地組織に組合わすことの出来る[伏セ]組織を考案することは至難の業であり、また経糸を二重や三重にして、「柄」をとじるためだけの「別? べつがらみ」と呼ばれる経糸を使用することで、その「組み合わせ」は限りないといっても過言ではありません。
このように、西陣の帯を作り出すろいろな過程のなかでも、「綜絖の占める割合」つまり組織による表現力が「機屋」の最大の特徴といっても良いでしょう。

《 綜絖その五》 について
[2008年9月]

 前回まで「綜絖」特に「伏セ」についてお話しましたが、非常に解りにくい仕組みであったと思います。しかし、この仕組みこそが西陣織の最大の特徴であり、世界中の織物の中でこのような仕組みを採用している織物産地はありません。
つまり経糸を一本ずつ制御する事は簡単なのですが、それでは糸数が多くなれば必然的に針口数の大きいジャガードを使用しなければ成らず「機」も大きなものと成ります。
当然、生産設備に多額の費用がかかり、大きな企業しか投資出来ません。 そこで、全体を引き上げたのち、その一部を引き下げる事で一本ずつ制御するのと同じような効果をもたらし、しかも織り出す
「柄の立体感」に変化を持たすことが出来る装置 つまり[綜絖]を考案することで、小規模な機屋が低コストにも拘らず独自の織物組織を考案できることが可能となりました。
このことこそが、西陣を常に活性化させ、小規模にも拘らず個性ある「織屋」が独自性のある「帯」を生産することが可能となり、西陣が織物産地として他の追随を許さない発展を遂げたのです。

《和装産業その一》について
[2008年10月]

 前回まで、西陣帯地の生産工程について色々とお話してきましたが一通り終わりましたので、今回からは和装や西陣全般における事柄について、私なりの想いをお話したいと思います。
現在、和装産業は未曾有の危機に直面しています。昭和の終わりから平成になったころ、和装産業は全体で約一兆円産業と言われていました。現在は約四千億ぐらいだろうと言われています。
なぜ、このような状況になったのでしょう。
まず、第一に日本人の生活様式の変化があると思われます。戦後、形あるものだけでなく、ものの考え方までが急速に欧米化し特にアメリカナイズされ、しかも以前の日本の良い所は全否定と言うような時代が続きました。当然、冠婚葬祭に代表される日本の儀礼的なものや、茶道・華道などの日本文化、そしてその様式に用いられた民族衣装も軽視されました。
しかし、その事だけが今日の和装産業衰退の原因とは思えません。と言うよりも近頃では世界中で総ての物事がグローバルになる中で、日本人が自分たちなりのアイデェンティティーに気づき始め、日本の文化や生活様式に自信を持ち始めているのではないでしょうか。
近頃の「和」ブームはその事を反映しているように思われます。世界の映画祭などで日本映画が注目されたり、映画そのものをリメイクされる事が多くなっている様に思われます。
また、「相撲」や「歌舞伎」が世界各地で興行されたりしています。 実際、十九世紀の後半には世界的に日本文化が注目された時期もありました。 戦後半世紀を経て、日本が「政治、経済、文化」、総てにおいて欧米一辺倒の呪縛からやっと解き放たれ、少なくとも「文化」において世界に誇れるものを持っていた、また持っていることに気づき始めたようにおもいます。
だとすれば、日本文化、生活様式を代表する「和装」は千載一遇のチャンスのはずなのです。
しかし、現実は存続の危機に直面しています。 つづきは、次回にお話します。

《和装産業その二》について
[2008年11月]

 第二次大戦終戦というより敗戦後、総ての「もの」がなく食べることさえ困難だった時代から、昭和二十四年の統制経済解除を経て日本は本格的な復興期に入りました。
この頃から、いわゆる現在の和装産業も始動したのだと思います。 復興期は食べるものさえ無かったのですから、「着物」など需要も供給も非常に少なかったのだと思います。
また、其の少ない需要もほとんどが実需の普段着で、礼装用の和装は極々限られた物だったとおもいます。しかし、いつの時代にも「お金持ち」は居られます。庶民とは懸け離れた生活をしていた極一部の人々は、冠婚葬祭の儀礼装束として、また茶道、華道文化の道具衣裳として、やはり礼装用の和装を必要とされていたのだと思います。
この事は、戦前はもとより洋装の無かった江戸時代でさえも同じだったと思われます。 よく、「昔はみんな着物を着ていた。」と言われますが、ほとんどの庶民は通常の衣服として木綿や紬を着ていたのであり、正絹のしかも金銀糸を使用した着物など、どれだけの需給があったのでしょう。
本来、いわゆる礼装用の着物は、世界でも類を見ない豪華なものです。世界で最も高級な繊維である絹織物を纈染めし、加えて金銀糸を用いて刺繍する。
また友禅染が出現して「後染め」が完成してからは、繊細な柄付で多様なデザインを可能にしました。
このような衣裳は世界中で「キモノ」だけと言っても過言ではありませんし、日本が世界に誇れる服飾文化であることは間違いありません。
では、このような「キモノ」を扱う和装産業がなぜ今日のような状況になったのでしょう。
以下は次回とします。

《和装産業その三》について
[2008年12月]

 今日の和装業界を振り返ってみると、戦後の復興期に新たな一歩を踏み出した後、高度経済成長を経て四十七年のオイルショックまで、多少の浮き沈みはあったにせよ基本的に需要が供給を上回る状態が継続しました。 まさにモノがあれば売れた時代だったと思われますし、この時代までは前回お話したように実需のキモノが売れていたのだと思います。
また、当時は式服と言っても無地の着物に羽織を着用し、普段着と共用していた部分もあったと思われます。西陣でいえば袋帯より九寸帯が売れた時代です。 そしてオイルショック以降、生活スタイルの急速な欧米化と日本文化や生活様式の変化とあいまって実需のキモノ需要が減少しました。
そこで和装業界はその変化に対応して、礼装の式服もしくはそれに順ずるキモノ、つまり普段着でないキモノを販売しようと考えました。 日本全体の生活水準の向上と相まって冠婚葬祭が大型化し、特に婚礼は豪華になりました。それにつれて婚礼には羽織を着ずに留袖、色留、訪問着を着用し、また花嫁には道具物として和服一揃を持たせる事があたりまえになりました。まさに日本人が一億総中流と言われた時代に、それまではごく一部の階級のステイタスであった礼装呉服や高級呉服を一般消費者に販売することで、和装産業は新たな需要を喚起したのです。
そしてこの新需要は従来の実需のキモノに対して高額であったので数量の落ち込みを補うに余りあり、
金額べースでは和装産業全体として伸びていきました。まさにフォーマル全盛の時代が到来しました。
しかし、背伸びをした需要はどこかで縮小します。
そしてそれに対応した供給は、過剰になってしまいました。 つづきは次回にお話します。


閉じる